よたろぐ

弾き語り、おりたたみ自転車とカメラのブログ

常識という名の暴力

日馬富士が引退してしまいました。まだ安馬と呼ばれていた頃に応援していたので残念です。安馬の突き刺さっていくような立ち合いが好きだったんです。それがうまくいかなかったとき、ころっと負けてしまうもろさも魅力的でした。だから贔屓目がすごく入ってしまいますが、この引退に関する違和感を書いてみます。

 

暴力はいけません。犯罪です。常識から外れている。だから今回引退に至ったのでしょうが、そもそも相撲に常識を求めるのは正しいことなのでしょうか。

 

常識的に考えたら、無理な食事で太らせて、人前で髷を結わせた上ほぼ裸で戦わせていること自体、容認してはいけないと思います。

 

中学を卒業したらすぐに入門させて一般社会と隔絶した生活を送る。これは正しいことでしょうか。お相撲さんが触れる大人(協会の人)は、ほとんどが元お相撲さん、この中で良識は育つのでしょうか。

 

言い方は悪いですが、世間とは隔絶した世界を作ることで相撲という国技は維持されているんです。相撲はスポーツではありません。スポーツなら部屋に住んで兄弟子の世話をする必要なんてないでしょうし、ちゃんこ番や洗濯をする必要はない。稽古だってスポーツ理論からしたら的外れなものが多いはずです。

 

だから相撲はスポーツではなく、1つの世界なんです。しかもとても狭くて居心地の悪い世界です。理不尽や不合理が多い世界。それでも相撲が好きでそこに飛び込んでくれる人がいるから我々は相撲を楽しむことができている。その分、我々の常識からみればおかしなことも起こりうる。それなのに一般人の尺度でああだこうだ言うことに違和感を感じざるを得ません。

 

純粋にスポーツとしてとらえるのであれば、髷はいらないし服も着ればいい。安全を期すために階級制にすべきでしょうし、張り手を認めるならグローブも必要でしょう。そういうことは考えずに、断片的に自分の常識だけを当てはめて批判をする。それは正しいことなのでしょうか。

 

貴ノ岩の態度が悪かったのは事実でしょう。そういう教育しかできないのが相撲の世界です。それに対して範となるべき横綱が体罰で指導をしてしまう、これも相撲界の現実です。貴乃花のようにマネジメント能力のない人が元横綱というだけで理事になれてしまい、協会がそう言う能力のない人をきちんと指導できない。全部ひっくるめて相撲界なんだと思います。

 

正しいスポーツという観点で見たら、すべての仕組みを見直すか、廃止しないとダメなのが相撲の世界。それを一部分だけとらえて、自分たちの常識で個人を責めることに何の意味があるのか甚だ疑問です。

 

そしてその自分たちの常識ですら基準が曖昧。琴欧洲は来日直後、白米が苦手で、泣きながら、時に吐きながら食べさせられたそうです。これも立派な暴力だと思いますが、その後苦手を克服したことが美談として語られています。僕には今回の件と琴欧洲に対するいじめとの境界線がわかりません。結局、常識とは自分勝手な基準ということなんでしょう。

 

昨今の常識人は、社会的に個人を抹殺することに抵抗がありません。過ちを犯した人間が有名人や成功者であれば、改めるチャンスを与えずに抹殺する。

 

日馬富士がしたことは過ちです。でも彼は言葉のわからない日本にやってきて一生懸命稽古をして強くなりました。その努力は並大抵のものではないし、それによって相撲界や我々聴衆が得たものもたくさんありました。そんな人を1度の過ちで社会的に抹殺してしまうと言うなら、この国の常識こそ暴力なのではないかと思ってしまいます。